ダイニッカと私の青春
大野俊幸
全日本アマチュア相撲で数々の戦歴を挙げた
ダイニッカ相撲部
昭和55年(1980年)入社
(第54代木更津市議会議長、現・木更津市議会議員、拓殖大学相撲部OB
全日本実業団相撲選手権大会2年連続優勝)
私は、高校、大学と相撲部に所属し、実業団チームのダイニッカ㈱に入社いたしました。私の高校時代の恩師 山本啓一先生と中山国久氏其の一が、中学校、高校の相撲部の同級生という縁で入社。
先代横地治男社長時代に入社し、相撲・仕事に精進いたしました。所属は東京支店営業1部、部長は当時相撲部監督の堀口圭一氏其の二(立教大OB)、課長に中山国久氏(同志社大OB)、部内に杉内開吉氏(同志社大OB)、佐藤道夫氏其の三、そして現在2代目横地將男社長の営業1部に配属され、現社長の一番初めの部下として、営業のイロハをご指導いただきました。お客様への接し方、話し方、営業として売り上げを上げ、利益を上げる事、請求書をチェックし、入金をしてもらうまでが営業の仕事であるとの教えでありました。
相撲では、入社以来東日本実業団選手権大会4連覇するなど各全国大会で団体優勝するなど、活躍をさせていただきました。個人では、昭和57年和歌山大会、昭和58年、昭和59年の実業団選手権大会においては、2年連続で実業団横綱になるほど輝かしい成績を残すことができたのも先代社長はじめ多くの方々の強くなれる、活躍をすることのできる環境を与え、造っていただきました事に今でも心から感謝しております。
いつも大会は、日曜日に行われるのですが、月曜日の朝礼に出席する為、その日のうちに飛行機で、あるいは夜行列車で帰京しなければなりません。昭和58年、石川県での実業団選手権大会で優勝した時は、寝台車に‶横綱其の四〟と副賞の刀をのせて、朝、東京駅に着き、そのままワイシャツ、ネクタイをし、八丁堀で朝礼に出たことを思い出します。厳しい先代も実業団横綱を持ち帰って、報告をした時は、大変喜んでいただきました。次の年の大会は靖国神社でしたので、先代社長はじめ多くの社員の方々にも応援にかけつけていただきました。連続優勝しましたが、団体では負けてしまい、次の日の朝礼では、先代から「実業団横綱をとっても、団体で負けてはいけません」と叱られた事、坂本誠氏(法政OB)は朝礼で一歩前にと先代社長から「貴様、なぜあそこで負ける」とビンタをされていました。今になれば、よい思い出であります。其の五5年在籍し、実家の家業を継ぐ為退社いたしましたが、今でも現社長横地將男氏と、中山国久氏とはお付き合いをさせていただいております。先代社長の葬儀には、参列させていただきましたし、また3人に大学の後輩を入社させてもらいました。
中山国久氏には入社してから、相撲の技術的な事はすべて教わりました。
もともと突き押し相撲だった私を四つ相撲もとれないと実業団ではなかなかタイトルはとれないとの指導で、上手・下手の取り方など細かく教えていただき、勝てるようになりました。後年、中山さんが大野を強くしたのは俺だと言っているのを私の後輩から聞き、まあ本当の事だから私も異論はありませんし其の六、本当に感謝しています。今でもその理論は私が高校生、大学生の指導にあたる時に生かされていると実感します。
現在は父親の2つの会社を引き継ぎ、経営者として、また木更津市議会議員(現在7期目)、千葉県相撲連盟会長、拓殖大学相撲部OB会会長として活動をしております。
5年間の短い在籍ではありましたが、ダイニッカで培われた精神とダイニッカOBとしての誇りを今でも持ち続け、これからも精進してまいる所存であります。
結びに横地將男社長はじめ、ダイニッカ㈱様の益々の御繁栄を心より御祈念申上げます。
其の一)
中山国久さん(同志社大学卒業)は、ダイニッカの大幹部で、第48代学生横綱、第24代アマチュア横綱となった方です。大学2年時の和歌山大会個人戦決勝で、当時日本大学3年生であったのちの横綱輪島を下手投げで敗って優勝するなど、数々の実績を残されました。現在もダイニッカで73歳を迎えられ、理事として活躍中です。
其の二)
堀口圭一さん(立教大学卒業)は、第42代学生横綱、第21代マチュア横綱で、ダイニッカでは取締役もなされ、映画『シコふんじゃった』の相撲指導もされました。
其の三)
佐藤道夫さんは、当時はそのキャラクターから 「ゲゲゲの鬼太郎」と呼ばれ人気者であったそうです
其の四)
「横綱」とは、実業団横綱に与えられるしめ縄の賞品のことだね。
其の五)
今であれば完全にアウト…ですよね(T_T)
其の六)
ホントは「自分のセンスと努力が大きい」と言いたいハズでは?